能登は優しや土までも
石川県の「果樹三兄弟」を育成した男
世界一のぶどう「ルビーロマン」の生みの親
野畠 重典 

著:山本一晴

ぶどう「ルビーロマン

りんご「秋星

なし「加賀しずく

みなさんは、ルビーロマンというぶどうを知っていますか?おおきくて甘くて赤い品種では世界一です。2018年の金沢中央卸売市場の初競りでは、一粒3万円、一房110万円という破格の値が付く味でも価格でも世界一のぶどうです。また、そのぶどうと同じく2018年の初競り、6個10万円の値が付いた梨の「加賀しずく」。梨は一般的に350g~400gを大玉と言いますが、600g以上ある超大玉です。そして、りんごの日本南限産地である石川県でも作りやすく収穫しやすい「秋星」石川県の果樹三兄弟を開発した能登の隠れた偉人『野畠重典さん』のことをお話ししましょう。
 その前に野畠さんを知るきっかけについて話したいと思います。
 先日、所用があって石川県の古い親友である山本治雄氏のところに泊めていただき、久々に語り合う機会がありました。治雄さんは、この春、嘱託期間を含めて46年間務めた県を退職しています。治雄さんは、農業技術の指導員として県下の農家の方々と共に歩んできた人です。
 彼が無事に技術指導者として仕事を全うできたバックに恩人であり尊敬する人の話になったとき、「ルビーロマン」の育ての親である野畠重典さんのことが話題に上りました。
 治雄さんが若い時、技術もないくせに生意気で負けず嫌いな性格の自分に関わって農業指導者としてのご自身の生き方を通して、指導者としての大切な心を教え育ててくださったそうです。治雄さんが言うには「人は一人では育たない、良き先輩に巡り合えるかどうかが一生を決めると身に染みて感じています。野畠先生に本当に感謝しています。」と。
 野畠さんのいつもの口癖は、
 「やれることは何でもやってみる。また、全てやる中に一つでも成功があればそれでいいでしょう。農業指導というのは教えるというより、農家と一緒に悩み、チャレンジすることが指導ではないかと私は思っている」と。
 『農家の皆さんと共にどこまでも!という生き方・心の置き所』を教えてもらった私はそれ以降、40年間県内各地を転勤、干し柿産地の拡大や能登に初めてとなったワイン産地の立ち上げ、能登の生むき栗の出荷に取り組み、金沢の有名菓子店との商品開発ができたことなど納得のいく仕事をすることができ、農業指導員という天職を続けることが出来たとの話に、野畠さんに俄然逢ってみたくなりました。
 7月30日、治雄さんと一緒に、石川県農業総合研究センターに行き、野畠重典さんにお会いしてきました。石川県農業研究センターの所長を平成23年(20011年)に退職され、その後も同センターで営農相談室長として非常勤嘱託として勤務されています。
私が今まで書いてきた小冊子、並びに自叙伝をお見せして、
 「高校教師退職後の自分の生きがいとして、市井に隠れた偉人の方達を書き残していきたい。」
 と自己紹介して、自伝のお願いをしたところ、
 「私のことなんか、何も書き残すようなことはしていないよ。しかし、大好きな治雄さんからの依頼は断れないのでね!」とおっしゃってくださいました。
野畠さんから伺ったことを書いていきます。

「私は、能登半島の先端。石川県珠洲市三崎町森腰で、小学校の教員であった(後に校長先生まで勤め上げられる)父重雄、母千鶴子の長男として昭和23年8月2日に生まれました。兄弟は5歳違いの弟ひとりです。幼いころから野山を走り回り、みさき小学校(H16年4月1日より、本小学校、小泊小学校、粟津小学校が統合)、三崎中学校を卒業しました。小学校の低学年までは、いわゆるいじめられっ子でした。今の時代と違って、陰湿ないじめではありませんが、なぐられたり、けられたり、横を通ると急に足を出されて転ばされたりしました。いじめっ子は、そんなことは全く覚えていません。いじめっ子にとっては遊んでやっているようなものだったのでしょうが、いじめられた方は永遠に忘れられないものです。何十年かぶりに同窓会で会っても誰にやられたのか、こちらはしっかり覚えていますが、向こうは全く覚えていないのです。背も低いこんなひ弱な私が、小学校5年生位になると能登の厳しい自然に育てられ、逞しくなってきました。私の住む珠洲市は能登半島の先端にあり、半農半漁の村です。雪の降り積もる極寒の冬には、夫婦そろって出稼ぎに出かける家も多くあります。私の家は父親が学校の教師でしたから、現金収入はありましたが村全体としては、経済的には大変貧しい村です。当時の家庭は自分の家で食べるお米や野菜は全て自分の家の畑で作ります。ほかの家では夫婦で畑を耕し、作物を植え収穫していますが、私の家では母が一人で毎日朝早くから日暮れまで畑で働いていました。近隣の子どもたち同様私も腹の足しになるものを求めて、海や野山を駆け巡っていました。
 春にはため池でフナ釣りや山菜取り、六月になると海に行き、ワタリガニ獲りです。夜の日本海、ヤスで突いてカニを獲るのです。母からはみそ汁の具として大変喜ばれました。夏には海で潜ってサザエ獲り、秋にはキノコやアケビ採り、しば栗拾いをします。山を出入りすると出入り口には門番が居て、バッグの中身を確認します。マツタケが入っていると没収されます。といってもマツタケはなかなか見つけにくいものです。晩秋の十一月になるとシベリア半島から渡り鳥が大挙してやってきます。
 ヒワ、シメ、アトリなど、また留鳥もしくは漂鳥であるメジロも能登半島の先端にある珠洲市には大量に飛来します。一年かけて親鳥を飼育し、やってきたときに鳴かせます。すると、小鳥たちが一斉に降りてくるのです。それを、カスミ網や(カスミ網猟は現在禁止されています)鳥もちで捕るのです。親鳥を育てる鳥かごも全て手作りです。竹を細く切って竹のひごを何本も作ります。もちろん鳥もちも自分たちで作ります。モチノキの樹皮を五月から六月にはぎ、秋まで水につけておいて、臼に入れて搗きそれを流水で洗う。しかもこの作業を3回~4回繰り返す。そうするとベタベタしたものができるのです。それを木の先の枝に取り付け松の枝でカムフラージュし、親鳥を一斉に鳴かせます。そうすると小鳥たちがやってきます。鳥もちを付けた枝に止まるのです。そうすると枝から離れなくなってしまうのです。そのようにして捕獲した鳥は、当時のお金で五十円から百円で売れました。オスの方がメスよりきれいなので良く売れます。冬、雪が積もると、野ウサギを捕まえます。けもの道にウサギをとるための罠をしかけます。
 もちろん罠も手作りです。ワイヤーのわっかを設置するのです。うさぎが取れると家族一同大喜びです。うさぎの肉ですき焼きをします。また有害動物駆除の助成金も一匹当たり五十円から百円いただけます。うさぎの耳と交換です。このように野山や海で大いに走り回ったおかげで、体も頑健になり、いじめられることもなくなってきました。中学校では鳥を捕まえることは禁止でした。父親と同じ学校の生徒でしたが、私が家で親鳥を一生懸命飼って育てていても父は文句言いません。むしろ「水をやったか?餌をやったか?」と聞くのですから、中学生ながら学校での指導と家庭での対応の違いに少し不信を感じたこともありました。
 部活動は九人制バレーボール部に入部しました。背丈が低かった私は、当然前衛のアタッカーにはなれません。後衛のレシーブ専門でした。中学校の男子バレー部は弱く、大会でもいつも一回戦負け、良くて二回戦でした。それに比べ女子バレー部は郡大会優勝、県大会出場の強豪クラブでしたからグラウンドでは良い条件のバレーコートを女子がいつも使用するという状況でした。中学校三年間は部活と先ほど述べた野山や海での狩猟採集でグングン元気になり、全くいじめられることもなくなりました。当時の中学校では私の同学年に一三八人生徒がいましたが、貧しい土地とあって、五〇人しか高校に進学しませんでした。
 飯田高校に昭和39年に入学しました。当時の高校は普通科と農業科があり、農業科の実習畑として、リンゴやイチジクなどの果樹も栽培してありました。腹をすかせた私達は、直接りんごの樹からもぎとり、リンゴをかじっていました。その時のりんごのうまかったこと。今から思えば、盗みですよね。
 高校時代は物理教科が得意でかつ果樹が大好きだった私は、近県には農学部がなかったので、島根大学を受験し合格しました。昭和43年のことです。 この時代は東大紛争を頂点として、大学紛争が全国の大学で吹き荒れ、島根大学でも学長や学部長を始めとする教授たちと学生との団交が幾度となく行われ、私も学生を代表して団交の場に臨んでいたのです。思わず発言してしまいました。
 「大学の為にあなたたち専門バカでは、何も改革できない」と。
 「貴様、何を言うか!専門バカにもなれんもんが何言っている!」とどやしつけられたのです。そのかたは、内藤隆次先生です。果樹を専門とされ、ぶどう研究やかき研究、いちじく研究等進めておられたのです。なかでもぶどうのデラウエア種の研究では名をはせた人です。ブルーベリー研究でも山陰地方で経済栽培が可能かどうかを研究されています。
 大学紛争が激しく授業も1か月以上中断しているときに、内藤先生から呼び出されました。「部屋に来い」と。
 早速部屋に伺いました。すると
 「君の卒業論文は、ぶどうだ。これをやれ!」
 「はい。わかりました。」
 嫌も応もありません。団交で先生の豪胆な人柄に惚れた私は、その日から内藤研究室での研鑽が始まりました。昭和42年に竣工されたばかりの農学部本館前のガラス温室の前では、立派なブドウが栽培されています。ある日、ご婦人と幼い3・4歳の幼い少女がぶどうの樹の周りの生い茂った雑草を、草むしりしているではありませんか。 「いったい誰がそんなことをしてくださってるのだろう?」
 なんと内藤先生の奥様とお嬢さんである事が後に分かりました。
 不思議なことですね。今日あらためてあなたに内藤先生の話をするこの日にお嬢さんから、便りをいただきました。先生がお亡くなりになったことをお知らせくださったのです。深い深い縁を感じます。
 私は内藤先生の指導で、ぶどうについて卒論を書き上げ大学を卒業しました。
 いよいよ就職です。理科教諭の免許も取得していた私は、父に頼みました。石川県の教員試験も受けるが、石川県の公務員試験(県の農業指導員)を受験させて欲しいと。
 公務員試験の当日のことです。筆記試験も終了し、面接試験となりました。今から思えば赤面ものですが、面接官に自信を持って答えました。 「私は石川県のぶどうを発展させるため受験しました。」と。
 ほどなく県庁職員としての合格通知をもらった私は、結局教員採用試験を受験しませんでした。
昭和46年4月から、県庁職員として県の農業改良普及所の技術吏員としてスタートしました。最初の赴任地は、金沢市内を中心とした石川県金沢農業改良普及所です。大学で内藤先生のもと、ぶどう研究にあたってきた私が、最初に担当したのは、県下でもりんご・なし・もも・ぶどうなどの古くからの産地です。私は主にぶどう農家の指導を担当することとなりましたが、なかでも、坂本忠さんとの出会いは強烈でした。ブドウ農家を発展させるという理想に燃えて農家指導に当たろうとしていた私でしたが、数十年にわたりブドウ栽培で生きてこられた農家にアドバイスをするなんて、おこがましいことでした。坂本さんは
 「あんたに教えてもらう、また習うということなど思ってもおらん!それより、あんたがここで一人前に育って他の地区で頑張っているということが、分かればそれで良い。」 私の勉強の為に、ご自分の畑の立派なぶどうの樹を自由に使って良いというのです。私は畑の隅にあるショボイ樹をもらおうとしたところ 「そんなショボイ樹を選んでどうする。一番良い樹使わないと勉強にならんやろ!。」
 と言うのです。結局、畑の真ん中にある成熟した樹で当時10万円ほどの売り上げする樹を提供してくださったのです。息子さんの裕さんとは今でも交流を続けています。 父親の忠さんは頑固な人で、裕さんが県下有数の進学校である泉が丘高校に通っていた時、担任の先生が、
 「泉が丘高校ではほぼ全員が大学へ進学します。就職する生徒はいません。」と何度も家庭訪問に来られたけれど、
 「裕は農家になるのだから、大学など進学しなくてよい」と押し切られたのです。
 頑固一徹で人情味のある農家の方々に2年間という歳月、育てて頂いた私は、ほどなく県の農業試験場に転勤となり、今度はりんごの研究に携わることになりました。石川県はりんごの南限産地です。青森や長野といった地域と比べ気候条件による色づきの悪さ等もあります。
 研修の為に、青森のりんご試験場に3か月派遣されました。週に3日は栽培技術の勉強で、残り3日は育種の手法の実地作業・勉強です。青森の代表品種である「つがる」や「ふじ」「紅玉」などでした。
 皆さんは「さんぱち豪雪」のことを聞いたことがありますか?昭和38年の豪雪のときは、大木も折れ、もちろん果樹や枝が折れて、多くの落下したりんごを川に捨てたのだそうです。
 大木では収穫も大変だ!と次に取り組んだことは、りんごの「わい化栽培」でした。イギリスのイーストモーリングにある試験場が真っ先に開発した「わい性台木による栽培」は、日本では昭和37年に国の園芸試験場盛岡支場で始められ、昭和40年代半ばから、長野県や岩手県で行われるようになりました。これは果樹を増やすために従来行われてきた優れた台木に同じように優れた穂木を接ぎ木し、大木に育てる方法と異なり、生育を抑える性質をもった台木を接ぎ木しコンパクトに育てる方法をわい化栽培というのです。(「わい化栽培」では園芸学会に昭和53年から59年まで5回にわたり研究報告をさせていただきました。)
 昭和58年4月には石川県農業試験場農業研究専門員になりました。「わい化栽培」などのリンゴ研究を進めていたところ、翌年の59年4月に石川県珠洲農業改良普及所に農業専門員として赴任しました。そこで山本治雄さんとの出会いがあったのです。

 2年後の昭和61年4月、再び石川県農業試験場に転勤となりました。平成2年の4月には石川県農業試験場栽培部の果樹科長を拝命し、翌4年4月には、石川県能登開発地営農センター主幹、更に5年4月には石川県砂丘地農業試験場果樹科長に任命されました。 今まで一貫して、りんごやぶどうの栽培技術に取り組んできましたが、この時から県の果樹産業に新風を吹き込むためには新品種を作り出せればと考えるようになり、農家の将来を見据えて、ぶどうでは赤色の大粒品種を、りんごでは「富士」より早く収穫できる赤いリンゴの育成、そして梨でも大玉で甘いジューシーなものを目指して、種まき・選抜に取り組みました。
 一般的に、果樹の新品種開発には15年から20年かかります。梨の「加賀しずく」は16年かかりました。ルビーロマンは14年かかりました。りんごはまず、育種目標に沿った特性を保有する優良な品種を選んで交配するところから始まります。初年度は花粉を交配させて結実させた果実から種を取ります。翌年その種をまいて、発芽したら苗木として育てます。その中から優れた性質を持つ苗木を選抜して育成していきます。ぶどうであれば2~3年で結実します。りんごの場合は7~8年かかります。結実して果実を食べてみて美味しければ良いだけでなく、固有の品種として形質が安定しているか(固有の品種として種苗法に登録できる条件を満たしているか)、着色など品質が安定しているか、一般への普及性(だれが作っても品質のぶれが少ない)などの条件を数年かけて検証します。育成が完了して、品種登録に出願しても、実際に登録が完了するまでには、さらに2年程かかります。だから、交配から登録満了までは20年以上かかるわけです。(長野県果樹試験場)
 りんご「秋星」は、平成17年(2005年)9月13日に品種登録が完了しました。幸いにも新品種完成までに一般的に20年かかると言われる中で、「秋星」は15年で品種登録されました。この正式登録を待つ前年に、育種を引き継いでくださった山田省吾さんが脳出血でご逝去されました。残念でなりませんでした。私の転勤移動中育種を引き継ぎ、何百本もの木を立派に育てて頂いた専門研究員の山田さん、山田さんの葬儀では涙ながらに『あなたが作った品種です』と語りかけさせていただきました。
 また、ルビーロマンは平成19年(2007年)3月15日登録完了しています。
 梨の「加賀しずく」は平成26年(2014年)に「石川n1号」として品種登録。
 平成28年(2016年)に「加賀しずく」と名称決定されました。
 「加賀しずく」の開発は平成10年(1998年)に、品種「鞍月」から種子を採取し翌年種をまきました。
 この「鞍月」という品種は金沢市内の鞍月地内で栽培されていたローカル品種で金沢でしか収穫できないものです。
 石川県でも国の試験場で開発された「豊水」や「幸水」、千葉県松戸市において発見された「20世紀」などの品種が栽培されており、これらの品種と交雑したものと考えられました。後に父親は遺伝子検査等で「幸水」と判明しました。翌平成11年(1999年)種をまき、平成16年(2005年)初結実。平成19年(2008年)6系統の中から最も有望な1系統を選抜。平成26年(2014年)品種登録申請ができ、平成28年(2016年)「加賀しずく」に名称決定。平成29年(2017年)から市場デビュー。それでは梨の苗木販売に至るまでどのような手順と年数がかかるのでしょうか?
 新品種を作るために、父親と母親の交配がなされます。それで1年。
 そして、播種(はしゅ)といって種まきをして、育苗(苗ほ場)で1年。
 結実・果実調査(選抜ほ場)で3年~5年。(加賀しずくは初結実まで6年かかりました。)
 系統適応性検定試験(全国の試験研究機関)で6年~8年。
 品種登録出願・出願公表で1年。
 種苗会社へ穂木配布(苗木生産で1年)
 ようやく苗木販売されるのです。
 私が「加賀しずく」の種をまいてから市場デビューまで実に18年もの歳月がかかっています。
 先にも述べましたが、りんごでは一般的に品種開発まで20年。「秋星」は幸いにも15年でした。ぶどうでは10年と言われています。「ルビーロマン」は12年かかりました。
 「秋星」は金沢出身の文豪「徳田秋声」を由来としています。12品種のりんご、なかでも「ふじ」と「つがる」を主に掛け合わせてできましたが、最初の一口が「さわやかな酸味」が、その後に「甘味」があり、実にバランスよく美味しい。今までにない、ちょっと癖になりそうな感じをもたらせます。
 りんご「秋星」・ぶどう「ルビーロマン」・梨「加賀しずく」これらの三種は私が開発にかかわった石川の果樹三兄弟です。
 確かに私が最初に種をまきましたが、ご存知のように私一人で成し遂げたのではありません。途中何度か転勤もあり、実った果実を育成する多くの受け継いでくださる人たちがいればこそ、出来上がったものなのです。
 ルビーロマンの開発事例について少し詳しくお話ししましょう。
 果樹栽培に関わってきた私は、すでに述べてきたように、
 一、 果樹栽培農家を元気にしたい!
 二、 石川県民の皆さんに、より美味しい果物を提供したい!
 この二つの大きな目標(夢)がありました。目標達成はとてつもなく困難で、険しい道が待ち構えていました。四〇〇種もの種をまきましたが、目標とする種子は得ることが出来ません。何度も何度も失敗し、仕方なく黒い大粒種の「藤稔」の種子を採取しました。果樹王国でもない石川県では、新品種開発は不可能だというのが、多くの仲間の意見でした。スタッフの皆さんに、失敗ばかりしている中で、一つの目標を掲げました。それは
 新しい品種ができたら皆で温泉に行き祝賀会をしよう!
 ということでした。目標に向かって仲間の心が一つになりました。しかし、果実が成る前に、私の転勤が決まりました。
 その中でも特にお世話になったのが、試験場で圃場管理をしておられる技能技師の高山実さんです。彼には本当にお世話になりました。転勤になるまでに、種の播き方をお教えし、私がワンケース実施します。それをしっかり体得していただき残りの多くのケースを彼に実施してもらいます。そして、育成の手伝いも率先して黙々としてくれました。高山さんだけではありません。赤色の大きなぶどうの実が実った時、応援して下さった多くの人たちが心から喜んでくださったその時の様子を、仮名でまた開発者もぼかしていますが、石川県の中学校の道徳教材として掲載していただきました。

石川の果樹三兄弟新聞記事

真っ赤な「秋」見つけた
りんご「秋星
H29.10.18

なし「加賀しずく
H29.8.25

市場デビュー10年を迎え
金沢で初競り
創業111年、加賀屋が購入
ぶどう「ルビーロマン
H29.7.7

 私が仕事をする上で大切にしていることをお話しします。
 ① 出来ないことをどうしたら出来るかを考える。
     考えたら実践する(行動なくして次は生まれない。)
     うまくいかない(失敗する)
 ② これだけは誰にも負けないものを持つ
      人がやらないことを!
      人がやりたがらないことを‼ 
 また直接学校で生徒や児童の皆さんの前や、農業従事者の皆さんの前で講演させていただいています。その講演内容を少しご紹介します。

 テーマ『農林総合研究センターの仕事と目標達成に向けて』
 一. 農林総合研究センターは何をしているところ?
   1・新品種の開発
     (お米、やさい、果物、花の新しい品種づくり)
   2・高品質・省力化技術の開発
     (よりおいしく、より良く・簡単に作る方法)
   3・安全で環境に優しい技術の開発
     (できるだけ農薬や化学肥料を使わない方法)
 二・目標(夢)を実現するために
   ルビーロマンの開発事例から
 講演の最後には、目標(夢)の実現にむけてと題し、
 目標は大きく、やることは一歩ずつ!思い続ける、やり続ける(あきらめない)
        ⇒ 理解者を得る
 目標は  求められる人に!
    今は  求める人に!

ありがたいことに、平成26年度園芸学会北陸支部学会・功績賞に推薦していただき、受賞しました。全て皆さんのおかげです。
 私は『農業の素晴らしさを教えてくださった農家の方々にどうしても恩返ししたい』との一念で走り続けてきました。若いころは生意気にも上司であろうが関係なく、ただがむしゃらに意見も言わせていただきました。自分が農業総合研究センターの場長や、所長になったらさぞ後輩たちからいっぱい文句や非難があるだろうとおもっていました。口論はしましたが、皆さんに可愛がられ退職まで無事勤め上げ、なおかつ嘱託として研究所の営農相談室長として働かせていただいていることに感謝しています。
 私は我が子のような果樹三兄弟の将来を今なお心配しています。
 りんご「秋星」は、りんご生産農家が減ってきており、県外への宣伝もあまりなされていない。ますますジリ減になっていくのではないかということです。県の予算措置を見ましても、「ルビーロマン」にはブランド化推進事業費として930万円、「加賀しずく」は同じくブランド化推進事業費として350万円〔平成30年度予算(2018年度予算)〕付いていますが、「秋星」はありません。
 「ルビーロマン」は県知事も同行して、東京や大阪での宣伝活動も大いになされています。しかし、商品価値を高めるべく糖度や大きさのチェックを厳しくしているために、商品化率は50%を満たない有様です。何としても商品化率を増やす研究を今後とも持続していってほしいと思います。
 また「加賀しずく」は商品化されたばかりでもありますが、他の梨の品種と比べ三倍もの値段で取引されるという嬉しい状況です。しかし、品質安定の定着をさらに推進していってもらいたいし、すべての果樹に対して、立派な研究者・開発者も続々と輩出していただきたいと思っています。
 今後とも生涯、農家の皆さんが安心して、子どもや孫に田畑を引き継いでいけるよう見守ってまいりたいと思います。
 最後に、応援し支えてくれた家族に一言、心からのお礼を申しておきたい。
 『果樹の栽培・開発に命をかけてきた私の人生に付き合ってくれ本当にありがとう。果樹という生き物を育てるため、連続しての休みもとることが出来なかったね。幼い子供たちを旅行にも連れていくことが出来なかった。子どもたちには寂しい思いをさせたことだと思います。本当に本当にありがとう!私の人生は最高でした。』

 参考資料